リュックの中身 ---Self interview---
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―――演劇ライターになったいきさつは。

 1980年代から90年代半ばにかけて『初日通信』という劇評のニューズレターを編集・発行していた小森収さんから、情報誌の演劇関連の仕事をいただいたのが始まりです。私は1987年から『初日通信』を購読して、88年初めに「初日通信大賞」を決めるための読者投票に参加したことから、私がそのころ、年間180本ぐらい芝居を見ていて、しかもフリーライターだということを小森さんに知ってもらえたのです。
 当時、小森さんは常勤の仕事のかたわら『初日通信』を発行していたのですが、さらに演劇専門の編集プロダクションのようなことも始めるためライターを探していて、その仲間に入れていただいたのです。私が小森さんの下で、演劇情報や俳優インタビューを書く仕事をしたのは1年ぐらいで、その後は、演劇以外の仕事と同様、無所属のライターとして、演劇雑誌などの仕事をいただくようになりました。

演劇ライターを始めたころ、記事を書いたチケット・セゾン情報誌『PRESS』

―――その前から演劇ライターを目指していたのですか。

 そうですね。十代のころから、俳優や演劇界についてのノンフィクションを書くという夢があって、そのためにまず出版社か新聞社に勤めたいと思っていたのですが、かなわなくて、フリーライターになりました。

―――どうして演劇に興味を持ったのですか。

 中学生のころ、テレビで歌舞伎中継を見たことがきっかけで、歌舞伎に興味を持つようになり、歌舞伎座に、予約無しで安く見られる「一幕見席」があるのを知って、見に行きました。しかも最初に見たのは、古典的な歌舞伎ではなくて、現代語による時代劇でしたから、テレビドラマを見る感覚で味わえました。それで、生の芝居を見る楽しさを知った、というところです。そのうち、歌舞伎だけでは飽き足らなくてなって新劇、小劇場演劇、ミュージカルへと幅を広げてきました。

―――演劇以外のジャンルではどんな仕事をしていますか。

 ライターのスタートは学習雑誌ですが、その後、地方自治体や経済団体などの、広報媒体の仕事が増えました。印刷会社からパンフレットやPR誌などの仕事をいただくことも多いのです。これまで手掛けた仕事を振り返ると、企業や大学のトップのインタビュー、有名人の自伝のゴーストライター、飲食店の案内、市民グループの活動紹介、医療解説のリライト、講演や座談会の記事作成などと、まさに「何でもあり」です。
 本の編集もしています。2006年に発売された、横濱まちづくり倶楽部編・発行、有隣堂発売の『横濱の通になる本』という本です。横濱まちづくり倶楽部が開いている「横濱通養成講座」の講義のテープ起こしをしたのがご縁で、30人の講師の話から抜粋してリライトし、写真を入れたりして、まとめました。

編集を手掛けた『横濱の通になる本』

―――イタリア語ができるのですか。

 簡単な日常会話と、手紙などの読み書きはできます。わずかですが、イタリア語の雑誌記事や絵本などの翻訳をしたこともあります。小学生のころ、ルイジ・コメンチーニ監督の『天使の詩』というイタリア映画を見たのがきっかけで、イタリアに興味を持つようになりました。イタリアについて本で調べたり、中学に入り、英語が少しできるようになると、同世代のイタリア人と、たどたどしい英語で文通したりしました。それでイタリア語も、少しずついろいろなところで勉強してきました。向こうへは3回、行っています。

イタリア中部のまち、メルドラ。かつての文通相手が住んでいた

―――イタリアのどこに引かれたのですか。

 私は長い間、『天使の詩』で美しい街並みを見て、イタリアに行きたくなったからだと思い込んでいたのですが、最近、この映画のビデオを見たら、街並みはあまり映っていないのです。と言うことは、映画そのものが面白かったので、こういう映画を生んだのはどんな国だろう、ということから興味を持ったのだと考え直しました。外国と言えばアメリカ、という時代に、調べていくと、火山と地震がある、米や麺類をよく食べる、古い歴史があるなど、アメリカには無い、日本との共通点が見つかったことも、好きになった理由だったと思います。
 長くファンをやってきて、そろそろファンをやめようかと思っていた時、1999年に、フィンランドの旅行ツアーに参加しました。シンプルで、ところどころにずば抜けて良いものがある、といっためりはりがフィンランドの特色の一つだと知りました。それに対しイタリアには、素晴らしいと言われるものがふんだんにある、これはすごいことなんだ、と気付いて、ほれ直しました。

―――日露演劇会議の会員になったのは、なぜですか。

 直接の動機は、この団体の事務局長で演劇評論家の村井健さんに誘われたからです。海外の演劇界にも興味があるので、ロシアをとっかかりにしよう、と思ったのと、会員の方々にも引かれたので、入れていただきました。日露演劇会議は、ロシア中部のオムスクという市にある国立ドラマ劇場と交流があり、2004年5月に、そこの創立130周年の祝賀パーティーに参加する村井さんらにくっ付いて、オムスクとモスクワを訪ねました。いくつも部屋があって複雑な構造になっている劇場の奥まで見せてもらったり、演劇の盛んなロシアの、まちと劇場の密接な関係を実感するなど、収穫の多い旅でした。

オムスク国立ドラマ劇場

―――アジアには興味がないのですか。

 そんなことはありません。80年代には韓国の小劇場演劇に注目して、来日公演をよく見ました。韓国の古典芸能について勉強したり、ハングルを少しかじったりもしました。演劇に限らず、韓国や中国の文化については、日本とどこが共通して、どこが違うか、ということが気になります。
 アジアと言えば、1989年9月にイラクに行きました。イラン・イラク戦争が終わった翌年、湾岸戦争が始まる1年前という時に、音楽と舞踊の「バビロン国際フェスティバル」に出演した舞踏グループ「白桃房」の一行に、スタッフの一人として参加したのです。バクダッドに1週間滞在して、確かに貴重な体験をしました。ただ、今思えば、イラクについてもっと事前取材をして、向こうではもっとよく観察して、帰国後は記録を丁寧に整理して、向こうで知り合った人々と連絡を続けておけば、湾岸戦争の時に何か発信できたのに、と反省しています。

―――これからの課題は。

 今、二つのブログを立ち上げています。一つは最近感じたことを発信する「まちと表現、そして劇場」、もう一つは、80年代の小劇場演劇界で見聞きしたことを、自分なりの視点で記録する「捨てられない演劇資料から」です。これらのブログを通じて、きちんと発信することが当面の目標です。また、横浜を中心とする神奈川の演劇界との係わりが長くなりましたので、そうした蓄積を何らかの形で地域に還元することも、課題だと感じています。

―――かつての夢だった「俳優や演劇界についてのノンフィクション」は。

 かつて書こうと思ったことは、その後、いろいろ経験して見方が変わり、一から考え直さなければならないので、書き始めるまでにはまだ時間がいります。それに、今は、ブログでの発信を軌道に乗せることに、力を注がなければいけない、と考えています。まず、目の前のある仕事にしっかり取り組みたいのです。このホームページのタイトルに"a uno a uno"、イタリア語の「一つ一つ」という言葉を付けたのも、そういう思いがあるからです。

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